オイルショックから50年
 SS業界人として後世に伝えるべきこと
あなたはオイルショックから50年企画の 番目のお客様です。
今月は第1次石油危機(オイルショック)から50年にしました。 先月の
関東大震災から100年が好評でしたので再度歴史ネタです。
 実は、石油危機やオイルショックでネット検索すると色々出てきます。
一般市民の記憶としては、「トイレットペーパー他物がなくなった」
「狂乱物価と呼ばれ全ての物価が上がった」などの記憶が多いようです。
今月は、その一般市民目線に加え、我々石油業界人としての反省も含めて
紹介してみたいと思います。
            2023/9/28 初掲載  更新 文責 垣見裕司

私個人の経験
第1次石油危機(オイルショックは)1973年(昭和48年)から始まりました。
その年大卒入社なら今72才なので経験者は既に定年です。弊社の
所長会で聞いてみてもほぼ知らないので解説することにしました。
私はその時まだ中学生でした。担任の先生から灯油のポリ缶がほしい
と依頼され、学校に一缶持っていったのですが、御礼を聞けると思ったら
大間違い。 「えっ一缶だけ」と言われたのを今でも痛切に覚えています。
今思えばちゃんと忖度して、 先生のご自宅にポリタンクだけでなく、
中身入りで灯油を3缶くらい配達すれば良かったのかも知れません。

第2次石油危機は、1978年(昭和53年)です。この時私は大学生で、
母校の成蹊中学と高校の硬式テニス部の監督をしていました。
夏の軽井沢合宿には愛車46年式箱スカで行きましたが、応援のOB
やコーチも多くの人が車で東京からやってきました。 その時、皆様が
「SSに寄っても10Lしか入れてくれないので何カ所も回ったよ」と話して
いたのが印象的でした。
実は、第1次石油危機は、原油価格は4倍に上がったのですが、
日本に限れば、輸入数量は減っていなかったのです。正にパニック。
国民の不安をマスコミが煽り、根拠のないトイレットペーパーか゜なくなる
という噂で皆が買いに走り、結果として店頭在庫がなくなり、不安が現実
となりました。
その反省も含めて第2次石油危機は、国内のパニックは防げたのですが
原油の輸入量が減ってに苦労したのては第二次石油危機の方でした。

石油危機のきっかけは、第4次中東戦争とアラブ諸国の石油戦略
石油危機のきっかけは、第4次中東戦争です。深層を語ると3000年の
確執の歴史に言及しなくてはならないので、ひと言で説明させて頂きます。
1973年10月6日。エジプトとシリアがイスラエルに奇襲攻撃をかけました。
初戦はアラブ側が有利でしたがイスラエルが逆転し、アメリカや国際連合
の仲裁で24日に停戦しました。 この戦争そのものは約1ヶ月で終わった
のですが、サウジアラビアやアラブ諸国の産油国の組織であるアラブ石油
輸出国機構(OAPEC)は、報復として、イスラエル支援国(敵対国)、
中立国、友好国に分類し、
敵対国には原油の販売停止や大幅制限する
石油戦略を発表。 日本は外交努力で友好国になれましたが石油輸出国
機構(OPEC)も原油価格を4倍にしたので価格の影響は受けたのです。
第二次石油危機
第2次石油危機はOPECが1978年(昭和53年)末以降石油価格を
段階的に大幅値上げしたことと79年2月に起こったイラン革命。そして
80年9月に勃発したイラン・イラク戦争が重なった複合要因でしょう。
革命政府で実権を握るホメイニ氏は、資源保護を目的に原油生産額
を減らしたため輸出は一時的に停止しましたが、私はメジャーズの撤退
による部品や技術者不足で輸出に廻せる生産量を維持できなかった
のだと思います。そして80年9月にはイラン・イラク戦争が勃発。イラク
サダムフセイン大統領が宗教対立と資源保護を目的にイランへ侵攻。
戦争は長期化し終戦まで9年を要し日本では「イライラ戦争」などと
言われました。 OPECも高値価格維持の為、増産には慎重だった
ので、原油不足はより深刻となりました。
石油危機で変わったこと
 この2度の石油危機で変わったことは何か。私見ですが第1は原油価格
決定権が欧米メジャーから中東産油国或いはOPECに移ったことです。
技術があり開発資金をだしたのがメジャーだとしても、原油価格が2〜3
ドル/バレルというのはやはり安すぎました。 同時に資源ナショナリズム
という意識も中東各国に台頭してきたのではないかと思います。
 一方日本が第二次世界大戦の焼け野原から短期間で当時世界第二位
の経済大国になれたのも99%を輸入に頼るエネルギーが安価だったから
というのは事実です。今思えば、本来の価格に戻っただけかもしれません。
また地政学的リスクという言葉が使われたのもこの頃からだと思います。
同じ中東でもアラブとペルシャとの違い。同じイスラム教でもシーア派と
スンニ派の違いは、日本人には今一つ分からない歴史問題なのです。
石油製品の価格は高騰
ではその時の日本の石油製品価格はどのくらい上がったのか。 石油危機
以前とそれ以降の15年間で、どう変わったかを考えてみたいと思います。
次のグラフをご覧下さい。これは第1次石油危機前から15年間の日本の
原油輸入CIF価格とガソリンや灯油等の価格の推移です。
一喜一憂したくないので、毎月ではなく各年度の平均価格にしましたが、
それでもこれだけの乱高下です。

ガソリンは贅沢品 灯油は生活必需品
ここでの注目は、71年から73年まで灯油は約20円でしたが、それが第1次
石油危機で40円まで20円しか上がっていないのに、ガソリンは60円から
120円まで60円も上がったことです。 この中には元々28.7円/Lだった
ガソリン税が数量抑制も含めて53.8円/Lに値上げされたこともあります。
しかし基本は「家庭用灯油の安定供給を図るための緊急対策について」
と題して、生活必需品である家庭用灯油の小売店頭価格を380円/18L
に抑える一方、ガソリンは74年3月に昨年12月対比で8946円
(通称はやくしろ)/KLの値上にするよう行政指導を初めて行ったのです。
しかし値上げ時期や値上げ額は石油元売コストをカバーするには程遠く
「逆ザヤ」を強いたものとなりました。 この行政指導は74年8月に解除され
ますが「ガソリン独歩高」と「灯油や中間留分安」は96年春まで続きました
が、製品輸入価格を考えると明らかに歪です。

省エネで需要は急落

国内の「狂乱物価」の話はネットで検索して頂くことにして、この石油危機
への日本の対応は実に見事なものだと思います。まず日本国民や日本
企業が一丸となって実施したのが節約と省エネルギーです。
銀座や新宿の夜の街のネオン(広告用照明のこと)や、東京の象徴でも
ある東京タワーの照明も消されました。 今では信じられませんが、テレビ
の深夜放送も自粛され、深夜0時になるとNHKは日本国旗のはためく映像
と日本国歌が流れ、その後は灰色の砂嵐となったのは実に印象的でした。
また各企業の省エネへの努力も大変なものでした。 私は大学のゼミ旅行
で北海道の新日鉄室蘭や苫小牧の王子製紙を訪問しました。そして省エネ
をテーマに質問しましたが「あらゆることをやっていますのでひと言では
答えられません」というお返事が印象的でした。


業界粗利は急増も需要は減退

原油輸入価格の推移と原油輸入総数量の推移は上表の通りです。
1973年度の原油輸入は2億9千万KLもありましたが、75年には2億
6千万KLに落ち、85年度からは2億KLを切りました。 一方、石油情報
センター発表(当時は物価版)によるガソリンの末端価格から大蔵省通
関統計の原油輸入CIF価格を引くと元売や卸会社そしてSSも含めた
業界総粗利が計算出来ます。
石油危機以前の例えば1970円のガソリンでの業界総粗利は13.7円/L
しか無かったのですが、76年には49円まで拡大しました。
そして第2次石油危機の終盤の82年には、54.3円にまで増えているのです。
石油危機やオイルショックは、日本経済や日本企業にとって国難的な大危機
ではありましたが、石油業界は原油を仕入れてくれれば仕事は終わり、
あとは苦労せず儲かった時代なのです。

国家としての対策は

では石油危機を国の政策としてどう乗り切ったのかを説明しておきたいと
思います。 第一は1975年に制定された石油の備蓄の確保等に関する法律
(石油備蓄法)で民間備蓄だけでなく78年からは国家備蓄が創設され、何か
あった時は、備蓄でしのぐ方針にしました。
第二は省エネです。エネルギーの使用の合理化等に関する法律(省エネ法)
を79年に制定。工場や輸送、建築物や機械等、合理的なエネルギーの利用
に努めたのですが、この結果、世界有数の省エネ国となりました。
  第三は1980年に制定された石油代替エネルギーの開発及び導入の
促進に関する法律で、石油以外のLNG等への燃転等石油依存の低下が
模索されました。同時に中東依存度やホルムズ海峡依存度の低下も叫ばれ
ました。一時期低下した時期もありましたが、未だに実現出来ていないと
いうのが現実です。
石油業界としての反省点とその後の苦難
石油業界だけではないのですが今月の締め前に反省点についても触れて
おきたいと思います。 「潜在一遇のチャンス、闇カルテル、売り惜しみ、
便乗値上げ」で検索してみて下さい。国会での参考人招致がヒットします。
不適切な行為があったのではないか。74年2月26日、石油連盟会長、
日本石油、出光興産、昭和石油、ゼネラル石油、共同石油の各社長が
国会に呼ばれ議員から厳しい質問を受けました。
それは我々SS業界も同じで当時東京都石油商業組合の理事長だった
父も、NHKの朝の情報番組「くらしの経済」に出演して値上げの理由を
説明したり、当時の通産省に呼ばれて談合等があったのではないかと
質問されたと言ってました。
逮捕者が出た記憶はないですが引責辞任した元売社長はいたように
思います。東日本大震災もそうですが国民が困っている時こそ適正
価格販売が必要です。


その後日本産業界は工場の省エネや天然ガスへの燃料転換で石油需要
は大幅に減少しました。 石油元売は、精製設備の過剰問題や過当競争。
そして戦後からの政府の保護政策からの脱却も含め、2度の自由化の荒波
にもまれていきました。 その結果、元売は単独では生き残れず、85年昭和
石油とシェル石油、翌86年には大協石油と丸善石油の合併へと元売再編が
始まって行くことになりました。