ソビエト連邦とワルシャワ条約機構の幻想
 ブーチンの真相心理を考てみる
あなたはウクライナ企画の番目のお客さまです。
ロシア軍のウクナイナ侵攻から40日以上が経ちました。本来なら4月は
新年度ネタを書きたいところですが、21世紀の時代にこのような一方的な
大規模戦争が起こり、ウクライナの人々の虐殺等、毎日大変な目にあって
いることを思うと、やはりこの問題から目を背ける訳にはいきません。
 停戦交渉にしても、ロシアというか、プーチンが本当に停戦を望んでいる
とも思えません。そこで今月は、プーチンの言葉に出てくる、偉大な
「ソビエト連邦」や「ワルシャワ条約機構」がもし今存在したら。そしてウク
ライナの方々の心の傷「ホロドモール」についても紹介したいと思います。
               4月4日 初掲載  文責 垣見 裕司
プーチンの経歴
プーチンの名前は、ウラジミール・ウラジーミロヴィッチ・プーチン。
1952年10月7日にレニングラード(現サンクトペテルベルグ)生まれ
の69才です。世の中に知らせれるようになったのは、1999年。
時のエリツィン大統領に第一副首相に任命された時からでしょう。
8月9日にエリツィンから指名されたのですが、怖いのはここからです
何故かその日に首相は退陣を表明。そのまま首相代行となり8月16日
に正式に首相に就任したのです。更にその年、健康不安説他で、
引退を表明したエリツィンにより大統領代行に指名され2000年3月26日
の大統領選挙で当選。5月7日に第2代ロシア大統領に就任しています。
しかしこれには、1998年7月にKGBの後身であるロシア連邦保安庁
(FSB)の長官の時の権力を最大限使ったとも言われています。
実はエリツィン大統領はスキャンダルを抱えていましたが、それを
プーチンがKGB的な方法で処理したことが評価されたようです。
しかしそれでエリツインはブーチンに弱みを握られたとも言えます。
またロシアでは、1999年から2006年までに128人のジャーナリストが
死亡もしくは行方不明になっており、ゴルバチョフ元大統領は、
プーチン政権の関与が疑われてしまうと発言しています。
その後、プーチンは2004年に大統領選挙で再任。2008年5月に
一度退任しますが、腹心のメドベージェフを大統領にして自分は
首相として実権を握りました。
2012年。再度大統領に再任。以来、最大2036年まで大統領でいられる
よう憲法改正させようとしているとのとこです。
下記の3枚の写真は利用許可を得ていないのでリンクに留めました。
少年のプーチンKSB時代の制服写真エリツインより大統領代行に使命

KGB時代に起源がありそうです

プーチンはKGB出身というのは有名ですが、目指した理由は14才の時
フランスのスパイ映画「ゾルゲ」を見て憧れを抱いたそうです。そして
その14才の時にソ連国家保安委員会(KGB)の支部を訪問しました。
対応した職員は真摯に答え、KGBは自ら志願したものは採用しない
ので、今後は自分らKGBにコンタクトしないこと。大学は法学部が有利
なこと。スポーツの実績があるといいことなどを聞きました。彼はそれを
忠実に守りレニングラード大学の法学部に入り、柔道を学び、大学4年
の時にKGBからのリクルートによりKGBの職員になったそうです。
でも私が思うに今のプーチンの心を作ったのは、1985年からの旧東
ドイツのドレスデンの勤務からだと思います。1990年までNATOを始め
西側諸国の政治関係の情報を集める仕事をしており、東ドイツの秘密
警察の身分証明証も持っていたそうです。
しかし1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊します。そして僅か1年後の
90年10月3日に西側に併合する形で東西ドイツは統一。そしてプーチン
は母校のレニングラード大学の学長補佐官として戻るのですから、正に
NATOにより東ドイツを追われ、更にソビエト連邦も崩壊させられたと
いう思いが、遺伝子レベルで刻まれたのだろうと、私は推測しています。

1990年当時と現在のNATOとソ連&ロシアの境界線

では、改めて東西ドイツの統一前のNATOとソ連の境界線(黒太字)と
現在のNATOとロシアの境界線(赤太字)の地図を作成してみました。

NATO加盟国 ソビエト連邦加盟国 ワルシャワ条約機構加盟国比較

確かに、上の地図と黒太字の境界線が赤太字の境界線になった
ことを、プーチンの立場からみれば、NATOがロシアに侵略している
ように見えるかもしれません。
でもそれはNATOが軍事力を使って、加盟国を増やしたのではなく、
ソビエト連邦やその後のロシアに魅力が無く、また信頼もされていな
かったということでしょう。両陣営の加盟国は後述します。

ソビエト連邦とワルシャワ条約機構加盟国が今存在したとしても

では現代にソビエト連邦とワルシャワ条約機構加盟国が仮に
復活したとして、西側諸国のG7と経済力を比較してみましたが、
答えは明白でした。ソビエト連邦系の20数カ国全部合わせても
世界の4.32%で現在のドイツ1国4.59%にも及ばないのです。

また1990年当時のソ連と中国の
関係は ソ連>中国でしたが
今は完全に逆転し
中国>ロシアです。
これはメンツを重んじる両国に
とって微妙です。今回はラブロフ
外相が中国を訪問。今後も経済
制裁の中で、中国の立場が強く
なりますがそれをプーチンは
やがて許容出来なくなると
思います。


NATO加盟国 ソビエト連邦とワルシャワ条約機構の加盟国

NATO加盟国 1949年 米、英、仏、伊、アイスランド、オランダ、
 デンマーク、ノルウェー、ベルギー、ボルトガル、ルクセンブルグ
 の12ヶ国で発足。その後 ギリシャ、トルコ、西ドイツ、スペイン。
1999年から、チェコ、ハンガリー、ポーランド
2004年から、ブルガリア、エストニア、ラトビア、リトアニア、
   ルーマ二ア、スロバキア スロベニア。
2009年、アルバニア、クロアチア。
2017年、モンテネクロ、2020年、北マケドニア 合計33カ国。

ソビエト連邦 世界最初の社会主義国。
 ロシア文字 CCCP,英語USSR。
アゼルバイジャン,アルメニア、ウクライナ、ウズベキスタン、
エストニア、カザフスタン、キルギジア〈キルギス〉、ロシア
グルジア〈ジョージア〉、タジキスタン、トルクメニスタン、
白ロシア〈ベラルーシ〉、モルダビア〈モルドバ〉、ラトビア、
リトアニア、

旧ワルシャワ条約機構加盟国 8カ国
ソ連、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ(1990年西ドイツに吸収
され消滅)、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア、
アルバニア(1961年不参加)

1991年6月15日-23日まで東欧訪問記

実は私、約30年前の1991年6月15日-23日に東欧を訪問しました。
ソ連の弱体化により動き始めた東欧の民主化。89年11月9日に
ベルリンの壁の崩壊から僅か1年後の90年10月3日に西側に併合する
形で東西ドイツが統一です。それを肌で感じたいと思い行きました。
でもこの時は、まだソビエト連邦は崩壊していない激動の年です。

私の感想というか結論を申し上げると、東欧諸国の経済力の低さや
国民一人一人の勤労意欲の低さに驚きました。
また西ドイツと東ドイツの経済格差は3-5倍と聞いていましたが、
実感では10倍以上だと思いました。その象徴が、西ドイツのBMW
と東ドイツの国民車であるトラバントとの差です。下記は1991年当時
の写真です。西側のBMWは、我々のよく知るBMWです。
トラバントは 当時の筆者の訪問レポートそのまま転記します。
トラバントは91年3月まで生産していた国民車だ。価格は15000DM
約120万円だ。 東ドイツ国民は18才になると購入申請が出来るが
買えるのは10-15年後。 排気量595cc、2サイクル、最高時速90km、
26馬力では西側のアウトバーンは走れない。
青い煙を吐く公害生産車で非常に小さく足はハンドルにぶつかる。
クーラーやカーステレオはなくラジオがついていれば近代車だ。
日本人にわかり安いのは1965年当時のパプリカだろう。 さて東西
ドイツ統一後の価格だが、ワーゲンやゴルフの10年落ちが2000DM
約16万円で買えるが、2年落ちのトラバントが250DM、約2000円だ。
ブラックジョークを聞いた。「誰か俺のトラバントの価値を倍にする
方法を教えてくれ」 「簡単さ。ガソリンを満タンにして来い」。しかし
驚くのは訪問した91年でも、東ドイツ車の約半分はトラバントなのだ。

東欧訪問時の写真

著作権を心配しなくてもいい写真です。私はどこでしょう。
町中で見た赤いトラバント 東ドイツでは約半数がトラバント
西ドイツ国民はBMWやベンツ ベルリンの壁の前で撮影

最後に不幸な話を二つ とにかく一日も早い停戦を祈ります

皆様は「ホロドモール」をご存じですか。飢饉を意味する「ホロド」と
疫病や苦死を表す「モール」を合わせた言葉です。ナチス・ドイツが
行ったユダヤ人に対するホロコーストなどと並んで、20世紀最大の
悲劇のひとつ言われています。
1932〜1933年にかけてウクライナ人が住んでいた地域で起きた
人為的な大飢饉で、ソ連のスターリンによって引き起こされました。
天候他で凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連が工業化推進に
必要な外貨獲得やその返済に、農産物をウクライナから取り上げ
輸出し続けたのです。ウクライナではソ連に対する反感の機運が
高まり、後に独ソ戦でドイツ軍が侵攻してきた際には、解放軍として
大勢のウクライナ人がドイツ軍に志願しました。
ウクライナの死者は人口の20%にあたる400万から1450万人以上
が亡くなり、600万人以上の出生が抑制されたそうです。
この事実は長く隠蔽され、ソ連政府がこの大飢饉を認めたのは
1980年代になってからです。在日ウクライナ大使は、この事実を
書いた本を配っているとの事。恥ずかしながら私は知りませんでした。
もう一つは、第二次世界大戦での死者数です。どの国が多いのか。
ユダヤ人の大量虐殺があったので、ポーランドかと思いましたが
実はソ連でした。色々な数字がありますが2100万人以上のようです。
日本の戦死者も310万人で多いと思ってきましたが、その7倍なのは
凄惨な独ソ戦のためでしょうか。ロシア国民は戦争の悲惨さを知って
いるはずなので、一日も早くプーチンを止めてほしいものです。