創業150年を迎えての感謝と今後の抱負 過去40年と直近10年。そして2050年に向けて |
前回の140周年は、本来なら2011年4月25日でした。しかしその時は、東日本前回書けなかった過去40年間の話
大震災から僅か1ヶ月後なのでとても140周年を祝う雰囲気ではありませんでした。
その結果、お祝行事等は約1年先送りし2012年7月に社員や配偶者を主賓とした
お祝会を開催。また主要取引先様は、個別に感謝の会を開催させて頂きました。
そしても今回もコロナです。現時点ではオリンピックさえ開かれるかどうかも
分からないのに、141年の時のように4-7月に何かを開催するというのは無理と
早々に断念致しました。コロナが落ち着いてから改めて検討したいと思います。
1871年の創業から2010年までは、2011年7月のHPでしっかり書かせて頂いたので入社後バブル時代が始まる
今月は、私が入社してから約40年の印象深いお話をさせて頂きます。
私は1981年(昭和56年)に入社しましたが、一通り会社の営業や業務を覚えた後に
着手したのが、本社ビルの建設でした。資源エネルギー長官賞まで頂いた本社隣
の麹町SSを閉鎖するのは、本当に忍びなかったのですが、その後到来する世界の
中の日本を予感しておりました。求められていたのが、当時の表現ではインテリ
ジェントビルで、高電力容量、床下にはOA(オフィスオートメーション)配線を完備
したビルです。またそれまでの東京は、東京、大阪、名古屋の東京だったのですが
これからは、東京、ニューヨーク、ロンドンの東京になることも感しじていました。
もう一つは、太平洋戦争の焼け野原から再興しある意味創業社長の父に集中して
いた株式や会社資産を受け継ぐ垣見興産の設立です。1981年(昭和56年)。
今で言うホーディング会社ですが、不動産を持ち不動産事業を行うことにより、
特定株式保有会社や特定土地保有会社ではない、事業を行う会社となりました。
やはり同族系の中小企業は、常に事業継承を考えておくことは必要だと思います。
日本におけるバブル期はいつか。色々ご意見はあると思いますが、一応1986年何故会社は株式投資をやらなかったのか
(昭和61年)から1991年(平成3年)までとしたいと思います。
私の入社が1981年(昭和56年)なので、入社後5年経って仕事も一通り覚えた頃
からバブルが始まったことになります。
また前述の本社ビルの建築前のSS閉鎖が1984年(昭和59年)、そして垣見麹町
ビル本館の完成が2年後の1986年(昭和61年)で、その2年後に、旧本館と隣地を
購入して、建築した別館ビルの完成が、1988年(昭和63年)なので、別館の方は、
建築資材が高騰し始めたのを覚えています。
世界の株価が大暴落したブラックマンデーは1987年(昭和62年)10月19日(月曜)
なので、日本のバブルは、そのブラックマンデーを乗り越えて拡大して行ったので
でしょう。余談ですが、私が東京証券取引所の上場株を初めて買ったのは、この
ブラックマンデーの翌日だったのでその意味では勇気があったのかなと思います。
ちなみに垣見麹町ビル本館の1-2階のテナントは、ある有名な証券会社でした。
そんな訳でその証券会社の支店長は毎月のように営業に来ていました。
そしてバブルが始まりました。お堅いはずのNHKスペシャルでも、財テクの話をやがてバブルはじわじわ崩壊
何度も何度も放送していました。地方の小さな農協が、財テクで儲けている。
やがて財テクをやらない経営者は無能だとも言わんばかりの放送もありました。
そして本社ビル1階の証券会社の支店長は、相変わらず毎月営業に来ます。
当時の私は、まだ若く「行け行けどんどん」に見えたのかもしれません。
「垣見さん、この本社ビルを担保にして50億円運用しませんか。毎月1億の利益
は固いですよ」。でも、私としては、個人の少額で株の勉強はしても、会社として
財テクというか金融取引利益ではなく、実業に徹すべきだと心から思っていました。
我慢とか迷うということもありません。実業に徹した健全経営。これは明治4年の
創業当時からの遺伝子レベルで受け継がれた教えなのかもしれません。
もっとも別館ビルの方は、本館と別館の上物の建設費で、限度一杯まで担保に
入っておりましたが、本館だけは、銀行の担保にいれることなく、堅実経営に
徹しておりました。
そしてバブルはじわじわ崩壊して行きます。そうなのです。一気に崩壊したなら石油部門の直近10年
皆も直ぐに気がつくのだと思いますが、当時はそれが分からないのです。
印象に残るのは「ピークから1/3落ちたので、そろそろ反転しますよ」。
こんな話を証券会社の営業から何度聞いたことでしょう。
結局、会社としては現物の株式を銀行の貸金庫から出して、証券会社に預ける
だけで、大家としての協力を勘弁してもらったので、バブル崩壊の於ける実害は
お陰様でほぼ無傷でした。
もし本館ビルを担保に50億円も株式等運用していたら、今の本館も別館もきっと
両方無かったことでしょう。
またそれは不動産部門においても同様です。10年前にご紹介した通り、昭和60年
代から不動産部を作りました。しかしそれはあくまで会社の保有していた土地等を
有効利用しての賃貸です。転売を目的とした不動産を仕入れていた訳ではない
ので不動産部門もやはり無傷で済みました。
またSS業界も、SSの土地を都心にもっていた会社も少なくなかったのですが
今存続している会社は、誘惑に負けずこのバブル崩壊を無事乗り切ったのです。
2012年(平成24年) 、武蔵野市吉祥寺にてDDオートジョイ吉祥寺オープン。石油ガス部の直近10年は
S&Bとして、賃貸期間の終わった西八王子と八王子長沼を閉鎖。
2013年(平成25年) 東村山市野口橋にてレンタカー、洗車、オイル販売専門店開所
2016年(平成28年)、吉祥寺SSが資源エネルギー庁のSS100選に選出される
2017年(平成29年)、 全直営SSに大規模災害時、燃料供給用発電機を設置し
各SSで東京都のガソリンと軽油在庫を備蓄する事業を開始
2018年(平成30年)、オートジョイ南田無 ガソリンスタンドは3月末閉鎖し
コーティング専門店として7月オープン
2019年(平成31年)、オートジョイ東村山。前面府中街道の道路拡張で閉鎖
同顧客を南田無で引き継ぐ。東村山は、7月より三井リパーク24としてオープン
2019年(令和元年)、文京区本駒込にオートジョイ駒込をオープン
オートジョイ吉祥寺 洗車コーティング専門店南田無 オートジョイ駒込
2014年(平成26)、瑞穂充填所が、大規模災害時に安定的なLPガス供給が
維持されるための東京都指定の「災害時対応中核充填所」になったことです。
これにより、約100坪の容器置き場を拡張、その屋根には、都内で初、全国でも
数例しかない危険物施設としての充填所の屋根に太陽光パネルを設置しました。
またLPガス部の直売部門である多摩液化ガスは工事部門を大幅に強化しました
合成樹脂部のこの10年は
合成樹脂部のこの10年は、取扱商品を大幅に拡充したことです。原料においては燃料電池自動車とSS併設型水素スタンド研究も満10年
低密度ポリエチレン(LDPE)、高密度ポリエチレン(HDPE) 直鎖状低密度ポリ
エチレン(LLDPE)、ポリプロピレン(PP)、ポリスチレン(PS)
また国内は勿論、お客様にニーズに合わせ、海外原料も取り扱っております。
製品については、 ダイレクトメール用資材、ショッピングバッグ、クリーニング・
リネン用資材、食品用包装資材、医薬品用包装資材、物流関連資材など多岐に
亘っています。詳細は、合成樹脂部HP https//kakimiyuka.com でとうぞ。
また大阪支店も150年を期にその体制強化を図るべく、本年3月1日より
550-0002大阪市西区江戸堀1-2-11大同生命南館8階に移転させて頂きました。
トヨタ自動車系のシンクタンク、テクノバ社よりご依頼を頂き、水素スタンド150年を迎え、これからの50年は、環境問題に積極的に取り組む
ビジネスモデル研究会の委員になったのが、2010年の5月でした。
その報告が2010年の7月のHPにも掲載されています。
それの委員会が発端となり、東京都の舛添知事が、2015年に東京水素戦略
会議を立ち上げ、今の小池都知事の「東京水素推進チーム」に引き継がれる
ました。今では、私は、立ち上げ時からの数少ない固定委員となりました。
また2015年には東京都石油商業組合の理事に就任。この水素問題の担当を
して来ました。そして2019年からは副理事長として、水素スタンド問題を始め、
昨今のSDGsやESGのような新しい問題を担当しております。
垣見油化は、石油を始め、LPガス、石油化学と化石燃料を扱っていますので
カーボンニュートラルの観点からは一見逆風です。しかし河辺セルフ屋上への
太陽光パネルの設置は、SS業界ではかなり早い2010年。またLPガス充填所屋根
への太陽光パネルの設置は、都内第1号。全国でも3例目です。化石燃料を扱う
からこそ、この環境問題に積極的に挑戦し、2030年までに、垣見油化グループに
おいて、カーボンニュートラルを達成し、自分よし、相手よし、社会よし、社員よしに
これからは、環境良しも加えて、200周年に向けて歩んで行きたいと思います。
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