垣見油化141年の歴史のご紹介
 変化する環境に挑戦し続けて来た141年を写真でつづる
垣見油化社141年史画の番目のお客様です。2012/7/2 文責  垣見裕司 
弊社4月25日に創業141年を迎えました。そして7月1日の日曜日に全社員を招いて、誠にささやか
ながら記念の食事会を開催しました。本来は昨年開催するばずだったのですが、震災で1年延期した
次第です。そんな訳で、今月は弊社の141年の歩みをタイムマシンのごとくご紹介します。

第1章  明治から大正12年まで

 垣見油化株式会社の前身、垣見油店、屋号「和泉屋」は、明治4年4月25日東京市の麹町区に油脂販売店として創業しました。初代の垣見佐右衛門が28歳の時です。それまでは、呉服屋や質屋を営んでいたのですが、江戸から明治という近代化に伴い、「蝋燭から灯油による明かりとなる」ことに一早く目を付けた初代佐右衛門の創業でした。取扱商品は、明かりを主な目的とする「ともしび油(燈油)」や、頭髪油(鬢付け油)、菜種油、食料油等でした。江戸時代の灯りは、行灯(あんどん)で、その燃料である菜種油や庶民はそれより安い魚から捕った魚油や鯨油を使っていました。石油が英国や米国から輸入され始めたのは幕末ですが、何故「石油」に代わっていったのでしょうか。その理由は、明るさと価格です。灯油の明るさは、行灯の0.2倍に対し3.2倍もあるにも関わらず、米国から樽で輸入しているのに国産菜種油の半額だったそうです。 また垣見油店は、単に灯り用の油を売るだけではなく、門灯や街路灯を夕方に点灯して朝には消灯して周って信頼を得たと伝えられています。今風に言えば、顧客のニーズを的確に捉え、点灯と消灯という一歩先の付加価値サービスにより信頼を築き、「地域社会への貢献」も果たしていたのではないでしょうか。

 垣見油店の創業の地は、現在三菱UFJ銀行麹町支店の場所です。その後、麹町区の発展に伴い、地域の有力者が集まって、明治22年(1889)麹町銀行を設立することとなり、麹町の中心がいいということで、垣見家の敷地が提供され、垣見油店は、現在の本社所在 地に移転しました。創業当時に祭られていた稲荷は、現三菱UFJ銀行麹町支店ビルの裏に現在でも、祭られており、今でも地域の人々が気軽にお参り出来る商売繁盛の守り神となっています。
 大正9年1月30日、垣見油店は、関東では最大規模の小倉石油の特約店となりました。この小倉石油は、昭和16年に新潟で勢力を築いた日本石油株式会社と合併することになり、現在のJXエネルギーである日本石油との取引は、この大正9年(1920年)から、現在まで、92年間もの長きにわたって続いております。

 当社は、後にご説明するとおり、関東大震災と東京大空襲で二回全焼しており、実は当時の写真が全く残っておりません。そこで今回改めて探しておりましたが、千代田区立日比谷図書文化館の滝口様より創業当時の貴重な新聞広告?資料(左上写真)頂戴しました。これを見ると建物の正面だけでなく左側も大きく見えることから、角地にあったことたが推測できます。一方、三菱銀行麹町支店より頂戴した2枚目の麹町銀行設立時と思われる写真とそっくりで、敷地だけでなく、建物もそのまま使ったのではないかと思うほどです。滝口様、本当にありがとうございました。)

第2章 垣見家の歴史について

 垣見油店を創業した垣見家の歴史は、非常に古く、初代は遠く室町時代に遡ります。 安土桃山時代に作られたと思われる巻物状の家系図によれば、初代 左近将監光道は、 足利義満の命により近江(今の滋賀県)に来たと書かれています。その後この地方の有力豪族となった垣見氏は、六代目は浅井久政に、七代目の時は、浅井長政に仕えています。浅井久政、長政親子は、織田信長によって小谷城の戦いで滅ぼされますが、秀吉等の諜略により、浅井家の重臣達が次々に織田側に寝返って行く中、助佐右衛門は最後まで浅井家に忠誠をつくし、小谷城に籠城して戦いました。この忠節に対し、浅井長政が小谷城落城の僅か10日前に垣見助佐衛門に宛てて書いた感謝状が、現在、滋賀県の重要文化財として、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館に保管展示されています。また近江の垣見総本家に伝わる「鎧や兜」は、県の最古の鎧としてやはり県の重要文化財に指定され、同博物館に保管されています。
 小谷城戦いで生き残った垣見氏は、その後秀吉に仕え、垣見家の家系図によれば、最盛期は2万5千石の大名であったと書かれています。ちなみに一万石の大名の動員可能兵力は、約100名なので、最盛期は約200人の家臣団とその家族を養っていたことになります。現在の垣見油化は、本体で100名弱、グループ全体で200名弱なので、当時と同じくらいの規模かもしれません。秀吉の没後、垣見氏は、石田三成に仕え、関ヶ原の戦いで西軍に属し、関ヶ原の直前の大垣城の戦いにて、垣見一直や垣見家純は、討ち死にしてしまいますが、この話は、司馬遼太郎の「関ヶ原」や「城塞」にも実名で記載されています。

 江戸中期に、垣見家は、江戸に入って来ることになりましたが、外様の武士や町人はご府内(外堀)の中には入れませんでした。そこで売りに出た呉服屋ののれんを買い、創業の地、麹町に移り住んだと伝えられています。商いは、酒屋、米屋など色々なことをやり、江戸時代後期には、呉服屋、そして質屋を商い、明治4年、油屋を始めたと伝わっています。
 これは余談ですが、忠臣蔵の話で大石内蔵助が垣見五郎兵衛の名を語って江戸入りするのは有名ですが、この垣見五郎兵衛も垣見家の一族です。実際資料を調べてみると、弊社の真向いのところに、岡野金右衛門の隠れていた「和泉屋五郎兵衛店」があり、また寺坂吉右衛門、富森助右衛門、間十次郎の隠れ家もありました。えっ「和泉屋?に五郎兵衛?」ここまでくると偶然とは思えません。但しある宿場で大石内蔵助が垣見氏本人と出くわした名場面は、フィクションです。実は三代目の垣見佐右衛門からは、関東大震災で焼けるまでは、大石内蔵助から贈られた御礼状があったことで、これが現存していれば、「お宝」間違いなしですが、今となっては確かめるすべがないのが残念です。

第3章 大正12年関東大震災から 昭和20年の終戦まで

 この当時の垣見油店の最大の危機は、1923年(大正12年)9月1日、関東地方南部を襲った関東大震災です。垣見油店も例外ではなく、店舗も住宅も全焼しました。大正2年生まれの三代目佐右衛門は、この大震災を10歳で経験しましたが、命からがら逃げ出すのが精一杯だったと語っています。残ったのは「のれん」という信用だけで、本当にゼロから出直さなければなりませんでした。 この関東大震災は、三代目の経営哲学に大きな影響を与えました。それは多くの会社や商店が被災したのですが、土地や建物を唯一の担保として、銀行からお金を借りていた会社は、結局、借金を返せずに倒産して行ったのですが、店主の人物や家、或いは「のれん」や「信用」でお金を借りていた会社は、その多くが復興を成し遂げたそうです。 人や店やのれん等の信用は、不動産以上に大切だ。この経営哲学は、三代目しっかりと刻みこまれ、それは後に四代目以降に受け継がれてゆくことになります。
 2代目佐右衛門は昭和14年になくなりましたが、3代目佐右衛門は26歳の時に店を引き継ぎ、慶応義塾大学に通いながら、専務として会社を切り盛りしていました。  昭和16年、資本金18万円の法人組織となり、東京石油販売株式会社の指定販売店、東京府植物油卸売組合指定販売店となりましたが、昭和18年には戦時色は更に濃くなり、政府指導の企業合同で「株式会社麹町石油配給所」を設立することになりました。 多くの商店が、後に紙切れとなる国債をもらって半ば強制的に合併させられた中、垣見油店はその中心的な存在として、最後まで残ったのは本当に幸運でした。昭和19年、三代目佐右衛門は、徴兵されましたが、その留守のさ中、昭和20年5月の東京大空襲でついに垣見油店は全焼してしまいました。

第4章 戦後の復興から八重洲獲得、国産鉱油、東京石油ガス

 戦後復員して来た三代目垣見佐右衛門は、のれんと信用のみで会社を再建することとなりました。昭和21年、戦時体制下の麹町石油配給所は分離解体され、垣見油店としての営業が始まり、翌年石油配給公団となる石油配給統制株式会社の指定販売店となりました。昭和23年、会社の資本金を500万円に増資するとともに、本社が手狭となったので、紀尾井町の今の文芸春秋社の土地を清水家から購入し、自宅兼ドラム置き場、詰換え作業場として使用しました。昭和24年に改めて日本石油株式会社の特約店となり、26年には、今の別館ビルの東半分(旧本社跡地)も購入し倉庫等で使用しています。そして最初の麹町給油所を建設したのに続き、昭和27年(1952年)、東京の玄関駅である東京駅八重洲口隣に日本石油が建設した八重洲給油所の運営を任されることとなりました。三代目佐右衛門が、正に命をかけて有力特約店の中からその運営を引き受けたそうです。 開所時点で大きさは東洋1。SSでのチューンナップ室やオートリフトをダブルで設置したのも日本初で、当時としてはずば抜けたスケールだったのです。 この八重洲給油所の開所当時のエピソードとして「このガソリンスタンドは、国産車にも給油してもらえるのですか」 とお客様から聞かれたそうです。写真は昭和37年当時で後ろに工事中の東京駅が見えます。八重洲のガソリン販売数量月間200KLもSSでのタイヤ販売も日本で初。 ガソリン販売が400KLを越えた昭和40年代は、近くの鍛冶橋の交差点まで車が並んだそうです。平成10年(1998)に国鉄の跡地利用で廃止されるまで、垣見油店の経営を46年の長きに渡って支えることとなりました。

 昭和28年には、本社の店舗もSSを主体にした麹町給油所に改装しました。昭和30年、当社は鈴木商館と田中製作所の3社でLPGの販売や卸を目的とした「東京石油瓦斯株式会社」を設立しました。実は最初の社名案は「日本石油瓦斯」だったのですが、日本石油に挨拶に行ったところ、「日本石油もガスの子会社を作るのでその名前は日石に譲ってもらい、垣見さんは東京にしてほしい」ということになったそうです。そんな名誉もあり日本石油瓦斯における当社の特約店コードは長らく「0001」でした。また同年、資本金を1000万円に増資して同年開業した荻窪給油所の2階にはLPガス機器の販売所を設けました。しかし都内の麹町や紀尾井町の手狭な土地でのLPG充填作業はやがて限界を迎え、また消費地が三多摩等に移っていくのを見越し、昭和33年、田無にガス事業の拠点を移していきました。
 昭和31年、日本石油の特約店で、池袋給油所と亀戸給油所を運営し、重油等の販売に強く極洋や日本共同捕鯨等の優良顧客も持っていた国産鉱油の再建を引き受けることになりました。しかしその会社の過去も全て引き受ける訳で、垣見油店が把握していない時に乱発された手形が忘れた頃に回って来るなど、垣見油店自身も大変苦労したと聞いております。

第5章 垣見油化誕生 石油専業会社からLPガスも含めた多角化へ

 昭和36年に資本金を2,000万円に増資し、翌37年には麹町給油所の隣の倉庫だったところに5階建の新社屋を建築しました。当時は麹町でも5階建ては珍しく、遠く富士山も見えたそうです。そして昭和38年10月1日、垣見油店は、LPGを取り扱っていた東京石油瓦斯と、国産鉱油の3社を合併し、社名を垣見油化株式会社に改め、資本金も5000万円と増資しました。このときはまだ石油化学は扱っていない訳ですがその社名には、三代目佐右衛門の夢が込められています。そして直営給油所も麹町と荻窪を大改装し、主力の八重洲に、国産鉱油から引き継いだ池袋と亀戸も加わり、また昭和41年に出来る南田無も加えて、直営6SS体制が確立し、新たな時代へと踏み出しました。
 昭和39年、プロパン瓦斯のローリー配送や末端配送業務を行う「多摩荷役(用品)株式会社」を設立しました。この子会社設立も単にLPGの配送部門を子会社化しただけでなく、LPGは、地域密着の物流が主体のネットワークを築くことが大切。「垣見」の名前をあえて入れないことで、系列を超えた地域密着のネットワークの確立を狙ったものでした。その思いは見事に成功し、多摩荷役は当社のみならず、色々な元売や卸会社、大手LPG販売会社にご利用頂く、東京では、最大級のLPG物流配送専門会社として地位を確立しました。
 昭和40年、プロパン瓦斯の充填や配送等を効率よく行う為の「田無ターミナル充填所、容器耐圧検査所 塗装所」の大改築工事が完成しました。写真の球形タンクをご覧下さい。近くを走る西武新宿線からもよく見え、業界にも一般の消費者の皆様にもよい宣伝となりました。合わせて翌41年には、田無ターミナル石油基地として灯油と軽油の貯蔵基地や、南田無給油所も完成し、当社の主要商圏である西東京を網羅する基地となりました。

翌42年には、暖冷房や厨房機器を取り扱う多摩燃器株式会社(後にネンキとして独立)を設立。昭和47年には、LPGの末端顧客への直売を目的として多摩液化ガス株式会社を垣見油化から分離独立して設立し、LPガスの直売部門を強化いたしました。
 昭和50年には、LPガス部門の大幅な拡充にともない、手狭となった田無ターミナルから西に約20km離れた、西多摩郡瑞穂町に瑞穂充填所を開設。30トンタンクを3基、回転充填機も2基という当時としては東京都最大のLPガス充填所と配送センターです。昭和45年には、東村山市本町に灯油軽油基地完成させています
 その瑞穂充填所も建築後25年を経た平成 8年に全面改造し全自動回転充填システムを導入。タンクも70トン2基、充填機も12連の全自動回転充填機2基を要するとともに、ローリー受入設備や充填ポンプ、更には電力も東京電力と自家発電という全てダブルシステムとし、災害に強い充填所として生まれ変わりました。平成23年の東日本大震災の計画停電時にその威力を発揮しました。

第6章 合成樹脂部誕生 三代目佐右衛門の夢の実現へ

 日本石油が日本石油化学を分離独立し、古河化学を吸収して合成樹脂事業開始したことに伴い、昭和42年、当社も合成樹脂部を設立。43年に日本石油化学、鐘淵化学工業、翌44年には徳山曹達の特約店となり、ポリエチレン等の合成樹脂原料の販売を始めました。 当時後発であった当社は、販売先である加工メーカーの製品を販売することにより、その原料を買って頂くという方法を考え、その為に製品販売力を強化することから始めました。そして昭和45年、日本石油化学の紹介により、田中紙工株式会社を吸収合併。徳山営業所、田無営業所を開設し、本格的に製品販売を始め、その後原料販売先や取引数量も増加となり、昭和50年資本金1億1,000万円に増資し大阪営業所(後の大阪支店)、広島出張所を相次いで開設しました。
 昭和52年、原料販売先であった三栄化成、翌年中央化学工業の2社を日本石油化学と合弁で経営に乗り出しました。 しかしその後、当社の「工場を持たないメーカー」という新たな方針により、経営再建を完了した中央化学工業、三栄化成を相次いで譲渡し、我が合成樹脂部は販売専業商社となりました。そして大阪支店の順調な発展もあり、現在、合成樹脂部門は垣見油化4部門の最大の柱となっております。

第7章 不動産事業で4本柱が完成、今後も社業の発展と社会貢献に邁進します

 昭和53年、情報処理の重要性を認識し「計算センター」を設立。LPガス部門のプロパンガス配送予測総合管理システムでは、自社の業務処理のみならず、外部の販売店様からも業務を受注し高い評価を得ました。昭和60年代には営業3本柱に加え、4本目の柱となる不動産部門を設立。バブル前の昭和61年に垣見麹町ビル本館、昭和63年に別館を建設。二棟が並ぶ素晴らしい本社ビルとなりました。平成11年には、LPG施設を瑞穂に移転してその役割を終えた田無ターミナルを再開発し、複合店舗垣見ショッピングプラザを建築。いなげや芝久保店としてオープンさせる他、ロードサイド店舗を建設し賃貸しています。
 平成になり全国のSS数は減少する時代に入りますが、石油部は、池袋SSの代替として、平成 2年にオートジョイ八王子を開設。その後、西八王子、八王子長沼、青梅市河辺に初のセルフとなる「オートジョイセルフ河辺」。平成21年には、環七馬込、そして平成24年には、西八王子の代替として吉祥寺にオープンさせました。またSSでの多角化として平成22年に格安レンタカーを開始。現在全店舗で運営し、総台数40台の事業となっています。
 また平成のSS拡大時に大切にしたのが顧客満足(CS)と従業員満足の(ES)です。この結果、2007年度と2009年度の新日本石油の全国特約店SS表彰では約1万件のSSの中でCS全国1位となり、また平成23年は八王子が資源エネルギー庁長官賞を受賞しました。LPG部門は、新事務所において、東京都下で初となる燃料電池の実証実験に取り組みました。合成樹脂部門は、平成18年、広告用品の開発販売する部門を独立させ、ジョイ・プランニングを設立しました。

 平成8年、業界に先がけインターネットHPを開設しました。以来毎月話題を提供し、YahooやGoogleの検索サイトの業界のキーワードでは常に上位にヒットし、石油業界でのバイブル的な地位を固めました。またそのご縁で、業界での講演活動や書籍「よくわかる石油業界」の発行という業界貢献にもなりました。
 こうして141年を一気に振り返ると明治にそれまでの家業から明かりが行燈から石油になることを見越して油屋を創業し、戦後はモータリゼーションの到来を確信してガソリンスタンドを展開しネットワークで東京をカバーする一方、LPガスでは三多摩に絞って面で展開するとともに、石油化学にも取扱い分野を広げるものの中小メーカーではいつかは限界が来ることを察知し、販売専業商社に徹したり、また不動産に事業を始めるにあたっても、売買はやらずましてや投機も控え、堅実な賃貸に徹したのも正に変化する環境に顧客中心主義で挑戦し続けてきたのかもしれません。
 そして今回、垣見家のルーツを改めて調べても、浅井長政に仕え、信長や秀吉に滅ぼされものの、秀吉や石田三成に仕え、そして関が原で負けても、時代が徳川なったのを確信し、江戸に出て武士をすて、呉服屋を始め、それでも江戸末期、旗本勢力の衰退ともに自分の売った呉服を担保として質屋を始めるところは、垣見家に遺伝子レベルで伝わる逆境対応能力なのかもしれません。
 垣見油化はこれからも、実業に徹し、垣見家発祥の地の近江商人風に言えば「自分よし相手よし世間よし」に「社員よし」も加え、社業の発展と社会貢献を目指して今後も200年300年先を堅実に歩んで行きたいと思います。 本内容に関する感想等は、こちらからご連絡頂ければ幸いです。